2013年05月13日
40年ほど前、私が『ほねや(柔道整復師)』になった経緯は、今もって私自身がはっきりしない。昭和50年秋頃、仕事1)に行き詰まりを感じていたのか、仕事場の人間関係に嫌気がさしていたのか、職業に対する将来の漠とした不安を感じていたのか、突然退社して『ほねや』になろうと思った。このことを岳父に相談したところ何も言わずに柔道整復学校のへの受験手続きをしてくれた。私は、ただ黙って試験会場に行けば良いだけだった。51年1月東京高等鍼灸学校2)の入学試験会場に居るのに、まだ退職の決心も付かず受験していた私は、「不合格になれば仕事を変えないですむ」などと未練がましく考え、出題された問題に解答しないことにした。60分の試験時間中、半分はなにもしないで我慢した。しかし、元々勝ち気な私は試験問題を見ている間に解答せずにいられなくなって、残りの時間でほとんどの問題に回答してしまったのだ。筆記試験が終わり面接会場に導かれた私は、面接官の「なぜ柔道整復師になりたいのですか?」との質問に「岳父の頭が禿げたからです。」とふざけた答えをした。「突飛でもない答えをすれば不合格になるだろう」との浅はかな考えであった。
そのころ、岳父は群馬県接骨師会の専務理事としての激務をこなしていた。その岳父は後継者の居ない接骨院と、私達夫婦が別居していたので義母と義妹が守っている留守宅を危惧し、遠方で行われる会議や会議後の宴会が深夜に終わったとしても必ず帰宅するということを繰り返していた。そんな岳父の頭髪が日に日に少なくなっていっているのも目にしていたので、これも『ほねや』になろうと思う原因の一つではあったのも事実だ。私は面接官に以上を事細かに説明してしまった。結果は合格、密かに不合格になることを願っていた私の目論見は見事に外れて、いよいよ退職を覚悟しなければならない羽目に陥ったのであった。身から出た錆である。それでも諦めきれない、言い換えれば優柔不断な私の性格は、入学が決まっていたにも関わらず結局、早い時期に退職できずに学校が始まる4月8日の前日に、どうすることもできなくなり退職した。こんなことから私の『ほねや』人生は何の覚悟も思い入れもなく始まったのだった。
この話には後日談があり、年度が替わってから私が7日間勤務したことに対して会社はその年の7月、昇給後の給料で計算し直した給料の差額と退職金の差額を郵送してきたのだった。思えば、大変几帳面な会社ではあった。
1)日産ディーゼル工業株式会社第2設計部第1機関設計課
2)現、学校法人呉竹学園 東京医療専門学校
(文:校長 細野 昇)
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